輪島市、穴水町の避難所、仮置き場から約171トン運搬
災害廃棄物処理支援ネットワークの一員として能登半島地震で4週間の無償支援活動展開
令和6年1月1日、元日。新たな年の幕開けは北陸地方、特に能登地方の人々にとっては苦難の年明けとなった。よりにもよって元日、帰省者も迎えながら多くの人々が家で過ごしていた午後4時10分、令和5年奥能登地震を大幅に上回るマグニチュード7・6(震源深さ16キロメートル)、最大震度七の「令和6年能登半島地震」が発生した。被害は石川県だけでなく、新潟県、富山県、福井県など九府県に及び、死者は244名、さらに11万1,572戸もの住家被害(3月26日時点)が生じた。
全清連は、環境省・災害廃棄物処理支援ネットワーク初動・応急対応グループの一員として発災後、直ちに無償支援出動に向けた準備を開始。石川県および環境省との協議等を経て、輪島市、穴水町の避難所ごみの収集運搬、仮置場から処理施設への転送支援を実施した。期間は1月22日〜2月17日までの4週間にわたり、収集運搬量は約171トンに達した。
インフラが破壊し尽された市街地で適正処理に尽力
全清連は一般廃棄物収集運搬のプロフェッショナルとして、災害時においても適正処理を通じた地域環境の保全と公衆衛生を確保し、社会の期待にも応えるため、過去の大規模災害時には無償支援活動を実施してきた。
今回の震災においても発災翌日の1月2日、全清連が初動・応急対応グループとして参加する環境省・災害廃棄物処理支援ネットワーク(D.Waste―Net)事務局に支援活動の準備に入ることを伝達。それと同時に震災に係るメディア情報の収集と、全清連災害対応委員会の片野宣之委員長に支援活動の出動準備を要請した。
環境省からは同5日、今後の支援活動に関する打ち合わせについての打診があり、これを受け同11〜12日、全清連災害対応委員会の片野委員長、松浪俊博副委員長、野村俊明委員、橋本祥委員、さらに(株)富山環境整備の石田敦史次長の5名が石川県庁での打ち合わせの上で、輪島市、穴水町における状況確認を行い、再び石川県庁にてどのような支援が必要とされているか協議を行った。その後、災害対応委員会は支援計画を策定し、1月16日の第7回理事会で計画の承認を受け、1月22日〜2月17日までにわたる活動を実行に移した。
全清連の地震被害に関連する支援活動は、過去にも東日本大震災、熊本地震などで行ってきたが、今回は半ば陸の孤島と化した被災地でまた異なる困難に直面することとなった。
高速道路損壊し片道4時間の大渋滞に
令和6年能登半島地震の支援活動で最大の障壁となったのは半島特有の地理的条件から来る道路事情の悪さだ。能登半島の背骨と言える自動車道「のと里山海道」が使用不能となり、奥能登方面にアクセスする道は一般道のみとなった。
しかしその一般道も崖崩れ、路面崩落が多数発生し、かろうじて通行可能というような状況で、迂回しようにも迂回路は全て極端な遠回りになるか、山中を通過する狭い道路で通行はあまりに危険だった。そのため余震でいつ再び崩れるか分からないような脆弱な道路にあらゆる支援車両、被災者の車両が集中して、金沢市から輪島市まで片道約4時間という大渋滞を引き起こす結果となった。
奥能登の被害は甚大で復旧進まず
また奥能登地方の被害は同じ石川県でも金沢市のそれとは比べものにならないほど深刻だった。比較的穏やかな金沢市内を出て奥能登方面に向かうと、七尾市から被害が目立ちはじめ、穴水町に入ると景色が一変した。半壊した家屋や道路陥没などが目立ちはじめ、町内中心部に入ると多くの家屋が被災し、信号機は折れ曲がり、道路は注意を要するほどうねり始める。これが輪島市に至ると道路からマンホールが突き出し、車を飲み込むほどの大きな地割れがあちこちに生じ、上下水道は当然のこと、停電した地域も多く、建物に至ってはもはや無事な建物を探す方が難しいという目を覆いたくなるような惨状となった。
倒壊した建物ばかりの市街地には人気も少なく、全体として復旧が進んでいる気配はない。
震災被害の場合、通常は発災直後から片付けごみなどの災害廃棄物の排出が始まる。被災者にとってそれが途方もない作業であっても、その行為自体が復旧につながる一歩であり、明日に向けた希望でもある。しかし今回は、あらゆる建物に応急危険度判定で立入危険を示す、いわゆる「赤紙」が貼られて手が付けられず、確認されるのは片付けごみでなく、主に生活ごみ、避難に関連して排出される毛布等の物品が主だった。
発災後、「見捨てられたのではないか」と感じる被災者もいたそうだが、輪島市だけでも人口2.8万人、一万世帯という規模に対して半壊・全壊は日時点)で、社会インフラに関わる全ての関係者が全力を尽くしても全く追いついていないというのが実態だった。
自らも現場作業に携わった全清連・三井弘樹会長は、後に「我々にはやれることしかできない」とコメントするが、これは被災地を見てなんとかしたいという思いと、各員が自らのプロフェッショナルの分野で全力を尽くすしかないという思いから来ている。いたずらに支援規模を拡大しても被災地の負担が増すだけで、支援に携わった会員らも皆一様に「放っておけない」「できることをしなければ」などの言葉があった。
金沢市に拠点設置、作業員のみ週交代
こうした状況で支援活動は、地元業者で対応ができない輪島市内に設置された避難所九カ所のごみ収集、輪島・穴水クリーンセンターおよび穴水町ふれあい広場(仮置場)から金沢市東部環境エネルギーセンターへの転送業務が主体となった。
拠点は金沢市(ホテルルートイン金沢)で、少しでも効率的な支援を行う観点から、岐阜県清掃事業協同組合から4トンパッカー車2台の提供を受け、運転作業員のみ一週間ごとに交代する方式とした。また支援期間全体を通じて、全清連特別会員の(株)富山環境整備からも4トンパッカー車1台と運転作業員の派遣を受けた。
会員以外からも、支援活動における車両の運行管理の必要性から(株)アクシスのGPS車両管理システム「KITARO」について問い合わせたところ、震災支援であるならば、と快く無償貸与をいただいた。
こうした形で支援体制を整え、第一陣は広島県連から7名で1月22〜27日、第2陣は三重県連から5名が1月29日〜2月3日、第3陣は大阪府連から6名が2月5〜10日、第4陣は愛知県連から8名が2月12〜17日までを担当した。
道路関係者の尽力により、日に日に交通事情は改善していったが、各隊とも長時間続く大渋滞には最後まで悩ませられた。朝は五時頃に起床し、6時半までには金沢市を出発。七尾市付近から渋滞が始まり、そこから輪島市の収集所にたどり着く頃には午前10時過ぎとなっている。道中には休憩場所もなく、作業を終えて金沢市の拠点に戻る頃には午後5〜6時頃となっていた。
被災者からの言葉が活動の励みに
活動のほとんどを移動時間に取られるという非効率な支援とならざるを得なかったが、それでも避難所では心労がたまっているはずの被災者から「ごみ処理に本当に困っていた」など感謝の言葉があり、現場においてはそれが活動の意義の再確認と、何よりも作業員自体の励みになったという。
途中、降雪によって支援を一時中断せざるを得ないこともあったが、期間中の収集回数は92回、収集運搬量は約171トンに達した。これ以降は地元業者に 作業を引き継ぐこととなったが、全清連としては建物の解体が進み、片付けごみの排出が増え、要請があった際には改めて第2回支援について協議を重ねていく方針としている。
現場より・・・
令和6年能登半島地震災害支援活動に参加して
野村俊明 (一社)広島県清掃事業連合会
今回の能登半島地震で、私は先遣調査から携わり、事前準備等させていただきました。個人的に大変貴重な経験をさせていただいたと思っております。
現地調査に行った当初は、平穏な金沢市内から七尾市、穴水町と渋滞の中を進んでいくと、徐々に町の状況が変化していきました。木造の古い建物は倒壊し、道路はガタガタで段差やひび割れが多くなり、電柱や信号機は斜めに傾き、町の景色は激変していったのが印象に残っています。
穴水町から輪島市への道のりは険しく、山裾は崩れ落ち、余震があれば帰れなくなるような倒木等も多数発生し、二車線あったであろう道は一車線になっていたりと危険を伴う移動となりました。道中では山崩れによって巻き込まれた方の捜索活動も行われていました。
約5時間程度かけて輪島市内に到着したときには言葉もありませんでした。建物はほぼ階部分が押しつぶれ、マンホールは一メートルほど飛び出し、ビルは傾き、まるで戦場に来たかのような感じでもありました。言語に絶する町並みでした。1月1日、団らんとしていた時間が一瞬で吹き飛ばされ、被災された皆さんの気持ちを思うと、何か、少しでも何か力になれればとの思いで携わらせていただきました。
支援活動は生活ごみの回収ということで、仮置き場からの転送業務や、避難所の生活ごみの回収でしたが、そのごみを見たら丁寧に分別されており、ペットボトルはキャップを外し、ラベルもきれいに取られている状態のものや、段ボールもたたんで束にされている状態のものが多くありました。大変な状況の中での分別は、被災者の方々には大きな負担になっていただろうと感じました。
また避難所のごみ回収 を行った初日は、避難所にごみはほとんどない状況で、確認したところ、環境省と輪島市との調整ミスで我々の支援が伝わっておらず、地元の業者が対応されていました。
避難所のごみは丁寧に分別されており、回収されているのは指定袋に入った可燃ごみだけで、その他の布団や段ボールは回収されず、狭い避難所に山積みにされていました。我々はそれらも回収しました。
状況確認のため輪島市役所へ松浪副委員長と訪問してみると、担当職員の方は疲れ果てて、必死に災害対応をしておられる感じでした。ですのでこういった連絡ミスや指示不足などは結構頻繁にあったのだろうと思います。職員の大変な状況、現場に必ずしも慣れていない環境省の方々だけでは限界があるのではないかと感じました。今後も、こうしたソフト面でのサポートや助言などできれば、全清連の初動対応も一層スムーズに、また被災者の方々の負担軽減にも役立てるのではないかと思いました。
伊藤進相 (一社)三重県清掃事業連合会
今回の支援場所では雪や路面凍結の心配もしていたのですけれども、事故・怪我なく活動を終えることができました。輪島市内は特に道路の陥没、家屋倒壊がひどく、支援1日目では通れていた道が5日目にはかなり狭くなっていたりと、支援期間中にも余震等で被害が広がっている事も感じました。メンバーは私を含めて五名でした。片野委員長の指示のもと、今回GPS機能、LINEグループ、Googleマップを使い分けて支援に活用できたことは、今後のスムーズな活動にもつながりますので良かったと思います。
避難場所の中は暖房が使用できない所もありました。ご年配の方は何枚も毛布に身を包んで寒さをしのいでいましたし、段ボール一枚で区切られた横には、おそらく名前も知らない同じ地域内の被災者の方が横で生活をし、廊下に置いてあるストーブに皆が集まり温まっている様子や、当たり前に生活できていた事が一瞬にして変わっていて、たくさんのストレスがあったかと思います。
避難所の中にはたくさんの方々が避難をされていましたけれども、収集運搬に来た私たちに感謝の言葉をかけていただけて感動しました。ごみの処理が本当に困っていた等の言葉をいただいたときは、この仕事の重要性を改めて強く感じ、平時においても決して止めてはならない業務だと実感しました。
今回被災地支援が決まった際もたくさんの余震等様々なリスクがあるにも関わらず、自ら私が行きますと手を挙げた社員には感謝しています。一般廃棄物の収集業務に携わっている者として被災地支援ができる事を誇りに思うと前を向く社員の姿にも大変、勇気をもらいました。
また三重県は月を挟む形で支援に当たりましたけれども、2月に入ると自衛隊、警察、医療関係以外の事業者も一層増えたかなと思いました。そういう意味では、1月中旬にすでに現場で動き出していた全清連の初期対応の早さも非常に重要なことと実感しました。
橋本 祥 (一社)大阪府清掃事業連合会
2月4日の日曜日に金沢市に入り、5日の月曜日から支援活動を行いました。
第一陣・二陣の方々からLINE等での引継ぎがスムーズだったので慌てることなく現場入りできましたし、作業初日にも片野委員長はじめ山田専務理事までもが連絡を下さりとても励みになりました。
私自身、災害支援は広 島豪雨災害の時から参加させて頂いていて今回で3回目の災害支援でした。現地の状況は、倒壊している家屋の屋根が地面についてしまうほど崩落しており、道路に亀裂が入りマンホールがかなりの高さで隆起しているなど、このような現場を目の当たりにするのは初めてでした。
1月中旬の視察から一カ月の期間があって輪島市に現地入りしましたが、状況にはさほど変化がなく改めて甚大な被害であると身をもって実感し改めて私が参加させて頂いた支援の中で一番ひどい状況だと感じました。
そんな中でも、支援活動によって少しずつ避難所生活から戻られて元の生活を取り戻そうとされている方々が家の前に家電や家具を並べられているなど道を塞いでいた瓦礫などの撤去作業を行われている状況でした。
今回の支援活動では、避難所の生活ごみの収集を行いました。初めに比べてごみの量も落ち着いてきており、避難所のごみに関しては2日に1回の収集でも間に合いそうに感じましたが、避難所収集場で高齢者の方に「可燃ごみ以外の収集は可能ですか?」と質問され、収集を行った際に「本当に困っていたので助かりました。ありがとうございます」と感謝の言葉をいただき、少しでも支援活動が力になっているのだと感じました。
作業における中で苦労した点は、交通部分についてです。
道路の補修工事が進んではいるものの、そのために渋滞する場所が日々変化するなど違いがあり、行き帰りの道中がなによりも大変だと感じました。
ただ、今回の支援活動 には森山委員の提案により、メーカーに交渉して無償提供された「KITARO」というGPSを活用し他の車両の現在地を把握できたので作業中は勿論、渋滞状況等なども共有でき日々の支援活動に役立てることが出来ました。
また、今回は連絡係として参加させて頂きました。今まで経験していなかった点としては、環境省との打ち合わせ・毎日の数量報告・悪天候時の収集を行うかの判断などです。
いかに効率よく支援活動を進めるべきか、また作業メンバーで困っていることはないかなどに重点を置き作業を行っておりました。
今までは、参加しているだけでしたが、今回の災害支援で少し責任感を持ち、とても良い経験をさせていただきました。また、なによりも第三陣の六人全員が無事大阪へ揃って帰ることを第一目標に災害支援を行い達成できたことに安堵しております。これからも今後の活動に生かし片野委員長、松浪副委員長のもと災害対応委員として活動していきたいと思います。
新實勝二 (一社)愛知県清掃事業連合会
第4班は2月11〜18日まで支援に入りました。第三班までの皆さんが活動のベースを作っていただき、またLINEグループにて常々報告をいただいていましたので作業自体は滞りなくスムーズに進んだと思います。
しかし、支援の中で想定外のリクエストをされることもあり、やはり現場は常に変わっているのだということを改めて感じました。我々が回収するのは家庭ごみ(可燃ごみ)と聞いていましたので、その予定で収集作業を行ってたのですが、避難所のスタッフから突然、布団や毛布、座布団、プラスチック類も回収してほしいと言われ、現場でどうしたものか迷ってしまいました。実際にこれらのごみが避難所のスペースを取ってしまっており、環境省に確認をして対応しました。
また支援の初日では、輪島市の収集場所が一カ所閉鎖しており、その連絡を受けていなかったために現場で作業員が「声のかけ方が違うのか、受付が違うのか」とうろたえてしまいました。こちらも環境省に確認をして、閉鎖中とのことで回収場所から除外しました。
こういうこともありましたけれども、穴水町のあすなろ広場では、たまたま年配者の方が冷蔵庫とテレビを軽トラックから降ろしていたのを手伝ったところ、「ありがとう」と何度も感謝してくれたことがとても嬉しく印象に残りました。被災者は年配の方が多く、重量物をトラックに積んだり降ろしたりするのがとても大変ということでした。
お礼のために来ているわけではないのですけれども、やはりこのような言葉を直接いただけると、自分たちの支援が役に立っているのだなと確認できて嬉しくなります。
また私は2019年の長野県豪雨災害の時も参加しました。その時と比べて、ごみがとても良く分別できているのが印象的でした。
洪水被害なので泥と一緒に家財が押し流され、その結果、町のあちこちに分別のされていない片付けごみが積み上げられてしまっていました。やはり分別ができていると片付けも早く進むのではないかと感じました。
最後に、輪島市の防災計画を確認してみたのですけれども、マグニチュード7で建物の倒壊数は115棟を想定したものでした。それが今回は2,800棟とものすごい乖離があります。
それだけ想定外のことが起きたのかなということを考えながら、愛知県でも南海トラフ地震の発生が危惧されていますので、この経験を持ち帰り、どう地元に反映し、活かしていくかということが大切か今回改めて感じました。
石田敦史 (株)富山環境整備 環境事業部 次長
富山県は地震には大丈夫だということが、慣例になっていましたが、令和6年1月1日、富山で経験したことのない揺れを感じる地震が発生しました。
能登半島では、多くの命が失われ、大きな被害が出て、被災した方々は、どれほどの苦しみ、悲しみを抱かれたのか、私たちには想像もつきません。
今回、(一社)全国清掃事業連合会の無償復興支援に携わらせていただくこととなり、生活ごみ、避難所ごみの収集運搬の支援ということで被災地に入り、支援隊として活動を始めました。
家屋の倒壊、道路の寸断や、上水道の断水などのライフラインがない状態での避難生活、下水道の寸断でゴミ袋の中に汚物という衛生面に苦慮されながら、必死に頑張っておられる被災された方の姿を目の当たりにし、改めて被害の大きさを痛感しました。
そのような状態の中で、被災された方から活動に対し、「ありがとう」「ご苦労様」とお声かけいただきました。こちらから元気な言葉で話しかけないといけないのに、逆にお礼や元気をいただいたことが一番印象に残っています。
当社は、穴水町穴水港あすなろ広場横災害廃棄物仮置場で、生活ごみと、片付けごみの仮置場の運営管理もさせていただいております。
生活ごみ仮置場が、当初は常に仮置場が満杯状態で、地元の業者さんへ、ご迷惑をおかけしておりましたが、全国清掃事業連合会の支援隊による支援活動が始まってから、常に生活ごみ仮置場が空に近い状態で、地元の業者さんから毎日、笑顔で感謝の言葉をいただけるようになり、雑談もできるようになったことが嬉しい限りでした。
地元の業者さんによる生活ごみの収集や、地元の焼却施設が復旧し始め、生活ごみの搬入を待つ時間があった際は、被災された方が片付けごみ仮置場に持ち込まれる、片付けごみの荷降ろし作業をしていました。
その時に、被災された方によって持ち込まれる片付けごみを、仮置場の作業員として、被災された方が、荷降ろしのお手伝いをしておられ、避難生活の大変さを目の当たりにし、心が痛くなりました。
今回、全国清掃事業連合会の復興支援活動に携わらせていただき、一般廃棄物の行き場がなくなることで、被災地の公衆衛生や環境保全そのものが脅かされることに直結しているということを改めて実感しました。
このことから、多く学び、災害は起きないことが一番良いのですが、緊急時における大切なことや重要なことを、本当に教えられた支援活動でした。